第57回 昭和の香り

「♪母は来ました 今日も来た」。帰らぬ息子を岸壁で待つ母。歌詞と台詞に情感を込めた二葉百合子の《岸壁の母》は、「一杯のかけそば」同様に社会現象となりました。「那須市 犬神佐清」の紙を掲げ群衆から我が子を捜す母・松子。「お母さん、佐清です」。振り向くと、顔に大怪我を負い戦地から復員した、のちに白マスクとなる佐清(実は青沼静馬)だった‥‥‥。

太平洋戦争敗戦後。外地から本土への軍人復員と民間人引揚とは、このようなぼんやりとした印象で、実感のない過去でした。しかし1本の YouTube 動画サムネイルが、大袈裟ではなく、瞬く間にピリ辛ゴーヤ飯を食べていた私を、昭和21年(1946年)3月のその場に連れていったのです。

広大な日本軍海兵団跡地の桟橋に、はしけから次々と上陸する軍人、民間人の長い列。同行する占領軍のオーストラリア兵と日本人通訳。引揚者を運んできた、黒煙をあげ沖合に停泊する帝国海軍装甲巡洋艦「八雲」と中型航空母艦「葛城」。カラー撮影された米国国立公文書館映像には、人々のほっとした表情と笑顔、軍人の不安そうな顔が残されています。引揚港で知られる舞鶴・浦頭・博多の風景と違うのは、海側の背景が宮島。陸側は実家の裏山。見慣れた撮影場所は私の縄張りなのです。

衛生婦からシラミ駆除のDDTを全身に噴霧される様子。黒い頭髪に白い噴霧液をのせたまま、ぞろぞろ収容施設に向かって歩く姿。映画でしか見たことがなかった、はしけが空母「葛城」の錆びて退色した舷側へと近づき、巨大な飛行甲板を下から見上げた実際の映像。施設から再び隊列を組み、連なる民家の屋根の上に蒸気機関車の煙が流れている正面方向、帰郷のため国鉄の駅に向かう様子。待機する軍人の目の前には、私も知っている昔の駅舎が建っていました。

22分弱の無声記録映像は、すべて現在のコンビナート地帯へと変わる以前の、77年前、実家の眼下で起こった現実でした。今まで全く知らなかった、郷土が重要な引揚げ港であった戦争の歴史。地元歴史研究会の資料では、全体で民間人・軍人600万人を超えた引揚者のうち、約6.8% (41万人弱) がここから帰郷したと記しています。そしてなぜこのエリアに高齢者が救急車でよく運ばれる旧国立病院があるのかの疑問も、引揚者の入院、治療のためにここに移転した呉海軍病院が前身とわかりました。

この映像を見た数日後。実家に戻る坂の途中で立ち止まり、遠くまで広がるコンビナートを眺めました。すると私の目の前からコンビナート群が消え、広大な敷地と沖止めの艦船、はしけから降りた人の列、収容施設から駅へと向かう人の列が小さく現れて……きません。映画のような感動的ラストシーンは、私に無縁でした。 


全く記憶にはない、57年前(当時4歳)の白黒写真‥‥‥

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