第27回 僕らはみんな、生きている
私の生まれた年は1962年です。トム・クルーズ、安倍明恵夫人、上祐史浩、宮崎勤。この人達も同じ1962年生まれです。高度成長期の日本でしたが、それでも少しだけ、私は太平洋戦争と戦後の名残を知っています。幼稚園の友達の家すぐ横には、おばちゃんから「中に入ってはぜったいにダメよ」と言われたほら穴があり、「お化けが出るんだ」と思っていたのが防空壕跡と後で知り、厳島神社社殿入口前の道で横になり、片足のないアコーディオンを弾いていた人が傷痍軍人だよと、母は言いました。広島市中心部の屋内スケート場「ヒロシマアリーナ」に行く途中で見た粗末な家々は、原爆後の焼け野原に建ったバラック住宅でした。子供の私には、目の前の現実とその理由が理解できませんでしたが、光景だけはしっかりと覚えています。
一般的に食料品店の店先には「奥さん、お買い得だよ」の安売り野菜、果物などが並びます。でも、私が子供の頃に母と行った地元生協の店先のテーブルには、2匹がくっついた魚、目玉が飛び出た魚、背骨の折れ曲がった魚が並んでいました。ここで釣れた魚ですと説明文もあり、地元の海の汚染状況が一目でわかりました。でもわかりすぎるその方法が「店内で魚を売っているのに、なぜ店の入り口に不気味な魚を置くのか」と町でも話題になり、生協会員だった母も、隣のスーパーに行くようになりました。
私の地元は、日本で最初の化学コンビナートもあった工業地帯。複数の大手化学工場や繊維工場、パルプ工場が集積した、高度成長期象徴の場所です。だから1962年生まれは、負の側面も知る「公害チャイルド」。「ドブ川」「ヘドロ」「光化学スモッグ」は身体が覚えています。列車で寝ていても、扉が開くと停車駅がわかると通を唸らせた「鼻が曲がるほどの臭い」。日本三景宮島を見渡す風光明媚な港湾に浮かぶ死んだ魚と、船舶の茶色い航跡と泡。授業中に「光化学スモッグ警報がでました。生徒は校舎から出ないでください」の校内放送が流れ、外で息を吸ったら死ぬと信じていた子供たち。オイルショックを契機に、公害はようやく人権・環境に関わる問題としての取り組みが始まりました。でも「公害チャイルド」の危機はここで終わりません。身近なバスで鉄道で屋内で屋外で、受動喫煙に晒され生きていくのです。
「背中にフンを落としたハトだって 両足で頭を鷲掴みしたカラスだって ツルだとぬか喜びさせたサギだって みんなみんな生きているんだ 友達じゃないけれど」
昭和40年代、冬服の小学生は‥‥
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